2015年2月18日水曜日

■植村隆さん反証の核心―講演から(2月17日午後6時半~9時、文京区民センター)



1.吉田証言に関する記事は一本も書いていない。
1980年代の、慰安婦にするために朝鮮人の女性を済州島で強制連行したという吉田清治証言記事。朝日は16本を虚偽証言だったと取り消し、第三者委員会が残り2本をその後、取り消した。
私は吉田証言に関する記事は一本も書いていない。
※2014年12月発行『朝日新聞の落日(宝島社)』の「吉田氏の記事を多く書いた植村隆記者の妻の母は太平洋戦争遺族会の常任理事であり、植村氏は個人的から虚報を流し続けた」は虚偽。

2.1992年1月の「慰安所設置に軍が関与した」という記事も書いていない。
朝日新聞検証にもあるように、この記事は東京社会部の記者が書き、私は当時大阪社会部にいた。
※池田信夫『朝日新聞世紀の大誤報 戦後最大のメディア犯罪を読み解く』の36ページにある「92年1月の記事は強制連行の証拠を示すものではなく関与の証拠だった。しかし植村記者が解説で強制連行と書いたため宮沢首相が謝罪してしまった」は虚偽。

3.私が金学順さんについて書いた署名記事は次の2本。
   1991年8月11日の朝日新聞、大阪本社の社会面トップ記事: 「思い出すと今も涙」という見出しで、韓国で元慰安婦が調査団体へ証言したという記事で、韓国の団体が聞き取り調査をしているという物事の初めを伝えた第一報。ソウルに出張し、おばあさんに会えずテープを聞いて、つらい体験を話し始めたという様子を伝えた。この女性が「だまされて慰安婦にされた」と書き、つらい体験を韓国の団体にしゃべっているという内容。
   1991年12月25日の大阪朝日新聞の記事:初めて証言したその女性が金学順という実名を出し、その後、日本政府を相手に裁判を起こした。私は弁護士の聞き取り調査に参加し、弁護士に話す言葉をメモして、語り合うページ「女たちの太平洋戦争」に書いた。

4.私の記事は「捏造」でないという検証
■ソウル支局長から呼ばれて、大阪社会部にいた自分が書いた
   90年夏、慰安婦問題を取材するため韓国に2週間取材に行った。当時32歳。語学留学を終えたばかりで韓国語に自信があり、かけずり回ったが証言は聞けなかった。翌年、ソウル支局長から「慰安婦が証言を始めたらしいから取材に来ないか」と言われ出かけた。調査していたのは韓国挺身隊問題対策協議(代表:尹貞玉さん)。テープだけであったので「会えませんか」といったが「会えない」と言われた。残念だったが、こういう証言をしている人がいること、それを調査していることが重要であるといういわゆる一報記事として1991年8月11日付で書いた。
   その人が8月14日、韓国メディアに記者会見して自分が挺身隊だった、慰安婦だったと証言した。名前は金学順さん。15日付の韓国の新聞に記者会見が掲載されたことを連絡で知った。日本メディアでは北海道新聞だけ単独インタビューに成功し、「日本政府は責任を」という記事を書いている。
■慰安婦を「女子挺身隊の名で」と書いたことは、ねつ造ではない
当時韓国では挺身隊は従軍慰安婦をさしていた。韓国では挺身隊は従軍慰安婦という意味で使われており、他紙でも頻繁に使われていて、そのことは西岡力氏も認めている。(「別紙」参照)
   日本メディアで初めて単独インタビューした記事を書いた北海道新聞の記者だった人は「君の記事は知らなかった。当時はそう言われていたじゃないか」と答えた。
   朝日新聞の第三者委員会(2014年12月22日)は、「1980年代は挺身隊が慰安婦をさす言葉として用いられていた。92年以降に慰安婦と挺身隊の相違が意識されるまでは、混同する表現が多く見られた」と認めた。
   読売も自らの検証記事の中で「読売新聞も92年以前は『挺身隊の名目で強制連行した』という記事が複数みられる」と認めている。
■私は「強制連行」とは書いていない。
 私は記事で一切「強制連行」と書いていない。1991年12月、金学順さんが日本政府を相手に裁判を起こしたとき、他紙に「強制」という言葉が見られる。私はそれを非難しているのではなく、当時の状況を理解してもらいたいのである。(「別紙」参照)
■騙した人が養父であることを意図的に隠してはいない。
1991年12月25日の記事にある「金もうけができると地区の仕事をしている人が言いました」という表現を、「金さんを騙した人は養父であることがわからなくなっている」と批判されている。別の証言で金さんは確かにそう言っているが、弁護団の聞き取りに養父は出てこない。その時に通訳していたハッキリ会の記録にも養父は出ていない。金学順さんが弁護士に話す内容をメモして記事にしたものであるから、他の聞き書きで言われた話を書くことはできない。
■キーセン学校の養女に出されたことは、全国紙5紙とも触れていない。
確かに、弁護団の聞き取り調査のなかで「キーセンの学校に通って芸人になりたい」と言っていた。このキーセンは70~80年代のキーセン観光のキーセンではなく、韓国の芸者さん。日本の芸者が三味線や踊りなどの芸があるように、韓国の芸者さんも芸を売るのが仕事である。その養成所に行ったことが慰安婦になった理由ではない。「騙された、いい仕事があるといわれた」と言っているのに、キーセンのことを書く必要はないと考えた。読売新聞を含め、東京の全国紙5つも全て「キーセン学校に通った」ということを書いていない。

5.名誉棄損訴訟について
1月9日に東京地裁で西岡力氏(東京基督教大)と文芸春秋を相手に、2月10日に、札幌地裁で桜井よしこ氏、桜井氏の言説を載せた週刊新潮など3社を相手に裁判を起こした。
■言論ではなく、訴訟を選んだのはなぜか
   言論だけではとどまらない卑劣な攻撃が大学、そして私の家族に寄せられている。
   捏造記者ではないと証拠を挙げて説明しても、説明を受け付けないで捏造を繰り返す人には、言論だけでなく法廷の場できちんと責任をとってほしい
■その人たちを被告にしたのはなぜか
   西岡氏が「捏造」と言ったのは1998年。桜井氏は西岡氏の記事を紹介し「捏造だ」と繰り返し書いている。大学への卑劣な攻撃を直接呼びかけているわけではないが、捏造と繰り返すことであおられている面があるのではないか。
   10月23日の週刊文春。朝日新聞が「マケルナ会」発足、大学への誹謗中傷など紹介した記事に対し、櫻井氏は「厳しい言い方になりますが、社会の怒りをかき立て、暴力的言辞を惹起しているのは朝日や植村氏の姿勢ではないでしょうか」と書いている。これは、大学や私の家族が卑劣な攻撃にさらされている中で、暴力的な言辞を認めて励ましている表現ではないか。決してこのようなことは許されない。

(別紙)

◎参考メモ
【「挺身隊=従軍慰安婦」という図式で報じられた主な記事など】
(韓国では当時、挺身隊=従軍慰安婦で、日本メディアも、この言葉を常用していた)
●1984年8月25日 朝日朝刊(2ページ)=特派員記事
「日本に謝罪と補償求めよ クリスチャンの韓国女性七団体 全大統領に公開書簡」 
戦時中動員された韓国女子てい身隊(軍慰安婦)に対する日本政府の謝罪などを求めるよう、
●1987年8月14日 東京読売夕刊(13ページ)
「従軍慰安婦の実態伝える『女子挺身隊』悲劇 劇団夢屋第三作」
特に昭和十七年以降「女子挺身隊」の名のもとに、日韓併合で無理やり日本人扱いをされていた朝鮮半島の娘たちが、多数強制的に徴発されて戦場に送りこまれた。彼女たちは、砲弾の飛び交う戦場の仮設小屋やざんごうの中で、一日何人もの将兵に体をまかせた。
●1991年6月4日 毎日(朝刊15p)
「アジアの平和を考える 北朝鮮、韓国、日本が初の女性シンポ 従軍慰安婦テーマ」
尹元教授によると、朝鮮人従軍慰安婦は一九三七年から終戦まで朝鮮各地から集められ、その数は十万人とも二十万人ともいわれる。当初は十七歳から二十歳までの女性だったが、戦争が激しくなると、十四歳から三十歳以上、中には子持ちの女性も『女子挺身隊』の名目で強制的に戦地に送られ、日本兵の相手を強要された。
●1991年7月12日 毎日(朝刊17p)
「『アリランのうた-オキナワからの証言』完成 4年がかり、在日2世の女性監督」
また「女子挺身隊」などの名目で徴発された朝鮮人女性たちは自由を奪われ、各地の慰安所で兵士たちの相手をさせられた。中には十五、六歳の女性もいたという。
●1991年7月31日 朝日朝刊(30ページ)=特派員記事
「朝鮮人従軍慰安婦問題 南北共同で補償要求」
日中戦争や太平洋戦争で、「女子挺身隊」の名で戦場に送られた朝鮮人慰安婦の実態を調査している韓国挺身隊問題対策協議会の尹貞玉・共同代表は、
●1991年8月15日 北海道新聞朝刊(25ページ)=特派員記事
「日本政府は責任を」。韓国の元従軍慰安婦が名乗り-わけ分からぬまま徴用、死ぬほどの毎日
戦前、女子挺(てい)身隊の美名のもとに従軍慰安婦として戦地で日本軍将兵たちに凌(りょう)辱されたソウルに住む韓国人女性が十四日、韓国挺身隊問題対策協議会(本部・ソウル市中区、尹貞玉・共同代表)に名乗り出、北海道新聞の単独インタビューに応じた。(中略)この女性はソウル市鍾路区忠信洞、金学順さん(67)=中国吉林省生まれ=。 
●1991年8月15日付で、韓国紙が報道
韓国各紙によると、実名で記者会見をした金学順さんは「挺身隊慰安婦として苦痛を受けた私」(東亜日報)、「私は挺身隊だった」(中央日報)、「挺身隊の生き証人として堂々と」(韓国日報)など、自らも「挺身隊」という言葉を使って記者会見をした。8月18日付北海道新聞朝刊は金学順さんの連載で、「ハルモニ(注・金学順さん)が『私は挺身隊だった』と切り出した言葉・・・」
●1991年8月24日 大阪読売朝刊(17ページ)
「朝鮮人の従軍慰安婦問題 真相解明に協力を 韓国の団体代表・尹貞玉さんが来日」
連行された約二十万人の女子挺身隊のうち「慰安婦」として戦地に送られたのは八万人から十万人とみられているが、公式資料がないので正確にはわからない(中略)。ソウルの金学順さん(68)もそんな一人。十六歳の時連行されて中国の日本陸軍慰安所に送られ、半年後、逃げ出した。
●1991年12月9日 毎日夕刊(6ページ)
 「従軍慰安婦問題は過去のことではない 韓国挺身隊問題対策協代表、尹貞玉さんに聞く」
従軍慰安婦問題は、韓国では一般に「挺身隊問題」と呼ばれている。
 「私たちにとっては、挺身隊が即ち従軍慰安婦なんです。戦争中、女子挺身隊の名で徴用された女性たちの多くが、慰安婦にされたのですから」

【月刊文藝春秋92年4月号での西岡力氏の言説】
    『挺身隊』イコール『慰安婦』という俗説が通用している韓国」
②「朝日に限らず、日本のどの新聞も金さんが連行されたプロセスを詳しく報ぜず、大多数の日本人は当時の日本当局が権力を使って、金さんを暴力的に慰安婦にしてしまったと受けとめてしまった。そしていまや金さんは従軍慰安婦のシンボルにまで祭り上げられている」

植村氏は金学順さんについて一切、「強制連行」と書いていない
    991年8月11日付大阪朝刊「17歳の時、だまされて慰安婦にされた」
②1991年12月25日付大阪朝刊「『そこに行けば金もうけができる』。こんな話を、地区の仕事をしている人に言われました。仕事の中身は言いませんでした。近くの友人と二人、誘いに乗りました」

他紙は、金学順について「強制連行」「拉致」と書いた(主な記事)
《読売》①1991年12月6日夕刊19p(訴訟提訴時の報道)
「太平洋戦争中、日本軍の従軍慰安婦や軍人、軍属に強制徴用された韓国人と
その遺族が、・・・・・訴えを6日、東京地裁に起こした。・・・・16歳で出稼ぎに誘われ・・・」
(リードでは強制徴用=強制連行の意、本文は出稼ぎ)
《日経》①1991年12月6日夕刊23p(訴訟提訴時の報道)
「従軍慰安婦として強制連行された金学順さん(67)。」
《毎日》①1991年 12月13日朝刊3p「ひと」
「金さんは十五歳の春、日本軍兵士にら致された。『挺身隊、勤労奉仕の名目すらなかった。
《このやろう。朝鮮人》と殴って引っぱっていくだけだった」
②1997年12月16日夕刊9p「訃報記事」
「1924年旧満州(現中国東北部)で生まれた金さんは、41年に従軍慰安婦として
中国の前線基地に強制連行された」